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松ヶ崎の変遷について

松ヶ崎の資料に松ヶ崎の文字が現れるのは810年、嵯峨天皇が松ヶ崎川でみそぎ祓いをしたとあります。
松ヶ崎の虎の背山ではいくつか埴輪を含む古墳がみつかっていて古くから人が入っていたようです。はっきりとした記録が残るのは平安遷都からです。しかし松ヶ崎は皇室との関係があったようでほかの村に較べると優遇されていたようです。

全村改宗と「題目踊り」「妙法」のはじまり

1306年、松ヶ崎の天台宗歓喜寺の住職、実眼の夢に白い狐に乗った翁が現れ、「都に行き日輪 の像を拝むよう」伝えます。実眼はすぐに京の町に出かけ、辻説法をしていた僧に出会います。

僧の名は、「日像」であったことからお告げはこの事に違いないと、僧の話を熱心に聞いたといいます。やがて心服した実眼は日蓮宗に改宗し、寺もご本尊を移して日蓮宗妙泉寺と改めます。 村人にも改宗を勧めますが、宗旨替えは大変なことだと拒まれます。そこで日像上人を招いて講話をしてもらったところ、村人全員が改宗を決意するのです。

この時、喜んだ実眼が題目を唱えると、村人達が踊りながらそれに和したそうで、これが日本最古の盆踊り(京都市登録無形民族文化財)の「題目踊り」の始まりと言われています。また、日像上人もこれを記念して虎の背山の西山南面に杖で「妙」の字を書きます。村人がその周り木を切り松明を燃やしたのが「妙」の送り火の始まりと言われています。

「法」の字は、江戸時代に日良上人によって虎の背山の東山に書かれました。「妙法」が当時の書き方とは逆の並びになったのはそのためです。

昭和6年に松ヶ崎村時代の地元民により設立された 「松ヶ崎立正会」によりこれらの伝統文化の保存継承に 努めている。またこれら地域の伝統文化等を守り発展させる為に昭和53年に財団法人を設立郷土文化の振興と 地域社会の発展に取組んでいます。

兵火による消失

松ヶ崎は二百四十年の間に、四度も兵火によって消失します。

一度目は1330年頃、南北朝時代に戦火に焼かれます。「太平記」に記されています。
二度目は1463年、京中の死者数数十万と言われる「寛正の飢饉」の社会不安から始まった土一揆の際、根拠地の一つとして幕府軍に焼かれてしまいます。

三度目は1536年、法華宗の台頭を忌々しく思っていた天台宗の山徒が京都の日蓮宗寺院二十一ヶ寺を襲います(天文法華の乱)比叡山の足元で全村改宗した松ヶ崎村は真っ先に焼き討ちされたそうです。防御や見張りのために虎の背山の一部に砦を作ったそうですが、これも焼け落ちたようです。村人は岩倉に逃げたと記録があります。

四度目は1570年、1571年に織田信長の比叡山焼き討ちの前年、比叡山に拠っていた反織田勢力の浅井、朝倉勢の一部が京都近郊に出没し、火を放った時に焼かれたそうです。

松ヶ崎百人衆

松ヶ崎村はこれほどの戦火、試練に会いながら何度でも見事に復興しています。お題目と共に培われた信仰心の厚さと、全村改宗に見るような村人の一丸となった結束力を感じます。

その結束力の一つが松ヶ崎百人衆です。

皇室との関係が深いと言う言い伝えの一つが松ヶ崎百人衆です。これは桓武天皇の平安遷都の折、奈良、平城京から百姓百軒を松ヶ崎に移住させ田と山林を貸し与えて皇室の為の米作りをさせたというものです。その為、分家は許されず常に百軒の農家が安定して作物を作るということが要求されました。村には今も伝わる様々な厳しい掟や定法が定められていたそうです。その代わり収入は安定し、貧富の差もなく、様々な便宜、優遇があったということです。当時の農家の主人で「碁」や「謡」を知らぬ者が無かったというのですから、ゆったりとした暮らしぶりだったのかもしれませんね。